あれから1年…、早いものです。
ジャズピアニストの田村和大さんの訃報が届いたのは、1年前の5月18日のお昼頃。自分はライブの為に大阪に向かっているところで、そろそろ現地会場に到着というくらいだったでしょうか。久し振りのグループの LINE で連絡が入ったスマホの画面には「田村さんが亡くなりました」の文字。当然、俄かには信じられなく、何度見直しても、そこにはお通夜と告別式の場所と日取りが記されているというものでした。
…動揺を隠せないものの、現地にもう到着という状況で、その後には本番がすぐに控えていたので、まずは気持ちを本番に集中させました。その後、無事にステージを終えて少しばかり落ち着いてくるも、遠征という状況もあってか、何か腑に落ちないと言いますか、不安定な気持ちが続きました。これは東京に戻っても変わらず、そのままお通夜の日を迎える事になった事を覚えています。亡くなったのは5月15日という事を後ほど知りました。
田村さんはジャズピアニストの先輩であると同時に、学生時代の部活動の1学年上の先輩でもありました。それは高校のジャズ研究会にまで遡りますが、実は自分が1年生の時の秋に行われる学園祭が終わった後に、突如(笑)田村さんは2年生として入ってきてて、自分からしてみれば、後から入ってきた謎の先輩…という感じでした。しかもジャズピアノの腕は確かで、自分はまだ勉強中だったジャズピアノのアプローチを既に格好良くこなしていて、これは大変な先輩が入ってきてしまった…と思っていたのが正直なところだったと思います。
附属の高校だったので、大学に入って今度は軽音楽部の先輩・後輩としてその関係は続きますが、田村さんはそこでもピアノを格好良く弾いていました。後輩として、自分は何とか田村さんに追いつきたいという気持ちがあったとは思いますが、田村さんは常にその先を進んでいて、そしてそれはいつか、追い付く、追い越すとかの考えには至らなくなりました。
大学を卒業し、演奏の仕事を紹介してくれたりした関係で、田村さんとは少し会う機会が何度かありましたが、いつしか顔を合わす機会は激減してしまいます。自分としても、会うと、まだ自分は田村さんに追い付けていない…と思うようになってしまい、敢えて顔を出さなかったのかもしれません。…そう、結局は何だかんで意識していたのだと思います。
そして今度は、母校の立教高校ジャズ研究会で、コーチとして田村さんに呼ばれる事になります。田村さんが以前から教えていたらしいのですが、時間の都合で自分も手伝ってほしいという話しで、いつしかそのバトンは自分に託されました。
振り返ってみても、全てが自分の今の音楽活動に繋がっている事ばかりで、田村さん自体にはその気は無いのかもしれませんが、人と人を音楽で繋ぐ力があると言いますか、人の人生に大きな影響を常に与えてきた人間力があったような気がします。田村さんの側には常に音楽がありました。気さくで、冗談と真面目の間をフラフラと行き来し、…とは言え、ご自身のピアノには常に拘りを持っていて、とても人間的な演奏をする…というと何か変な感じがしますが、実際そうだったと思いますし、その人間臭さな演奏は自分も羨ましいと思った演奏スタイルの1つでもありました。
…さて、あれから1年。お通夜の後も、その2ヶ月後ぐらいに田村さんを偲んで行われた大学軽音楽部による追悼 & 同窓会を経ても、昨年は色々な思いが交錯して、こういった事は綴れないでいました。しかし、今日は命日でもあるという事で、筆を取らせて頂いた次第です。色々と思い出を振り返ってみたりしているのですが、出てくるのは前述のように、全て今の人生に繋がっている事ばかり…。そう言えば、高校の卒業間近のシーズンで、大学でどんなサークルに入るか決めかねていたところ、既に大学1年生だった田村さんの「竹内、軽音入ってよ」の一言が無かったら、自分は音楽の道に進んでいなかったかもしれません。あの一言のおかげで自分は今でも音楽が出来ているとも思います。改めて、ありがとうございました。また、ふとジャズ喫茶にでも連れていって下さい。
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